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大河ドラマ真田丸の楽しみ方82 真田信繁が「幸村」と改名!史実は? 

「信繁」の名にこだわった三谷幸喜さんも「幸村」改名を決断?



NHK大河ドラマ「真田丸」で通称ではなく、本名で通してきた真田信繁。その信繁が、真田丸でもついに「幸村」と名乗ることになりそうです。この改名にまつわる経緯は、第40話「幸村」で明かされるのだそう。
真田丸の脚本家・三谷幸喜さんは、一貫して信繁の名にこだわってきました。その背景は、講談ものとして人気になる以前の真田信繁の姿を丹念に描くためでした。
しかしながら、大坂の陣出陣にあわせて、真田丸でも信繁から「幸村」に改名するようです。
時代劇などで親しまれてきた真田幸村の名。はたして歴史上でも、信繁が幸村と改名した事実はあったのでしょうか。

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1672年成立の「難波戦記」に、幸村の名が初めて登場



「真田太平記」などの時代劇、そして時代小説などで、「幸村」として親しまれてきた真田信繁。
その一方で、三谷幸喜さん脚本の「真田丸」は、一貫して「信繁」という本名にこだわってきました。その意図は、信繁の姿を丹念に描くためです。

とはいうものの、NHK側も最後まで「信繁」の名を一貫させるつもりではなかったようです。大坂の陣にあわせて「幸村」と名乗るアイディアを暖めていたのです。

史実上、信繁の兄・信幸が「信之」と改名しています。この改名は第37話「信之」で描かれました。
それでは、弟の信繁も「幸村」と改名した史実はあったのでしょうか。ところが、実際には、信繁が幸村と改名した史実はなかったようです。

「幸村」の名が世間に広まったのは、大坂の陣の後のことだといわれています。大坂の陣での真田軍の戦いぶりは、講談もの(軍記物とも)として人気になりました。関が原の合戦に敗れて、浪人となった真田信繁や後藤又兵衛らが、大軍の徳川家康を苦しめたことが、判官びいきの民衆にうけたのでしょう。

ちなみに「幸村」の名が最初に登場するのは、1672年成立の軍記もの「難波戦記」だといわれています。
「難波戦記」で真田信繁は「幸村」という名前で登場しています。それから、通称である「幸村」が世間に定着した、というのが真相のようです。

いつしか本名の信繁よりも、幸村のほうが有名となり、ついに真田松代藩の系図まで「幸村」の名を採用するまでになったのです。

松代藩の真田家系図までが「幸村」の名を採用するように



しかしながら、あくまで信繁が「幸村」と名乗った事実はなかったようです。書状にも「幸村」という名前が記載されたことは確認されていないといいます。

ただ、幸村の「幸」の字は、父昌幸、兄信幸と同じで、真田家の通り名となっているのです。一方で、「村」の字は妖刀「村正」からとられたともいわれています。ただ、難波戦記の作者が、なにを意図して「幸村」と名づけたのかはよくわかっていません。はたして、真田丸ではどのようないきさつで、信繁が幸村と名乗るようになるのか。名前にまつわるドラマも見所のひとつとなりそうです。

「幸村」として大坂の陣の英雄になった真田信繁。
真田丸の功績は、本名である「信繁」の名を定着させたことなのかもしれません。

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