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広島25年ぶり優勝迫るも…CSで日本シリーズ逃した球団は? 

日本シリーズ進出逃した優勝チームは3球団



25年ぶりのリーグ優勝へと突き進む広島カープ。
8月30日のDena戦に8-2で快勝、史上最速でのクライマックス・シリーズ(CS)進出を決めました。
これで優勝マジックは「12」。2位巨人とのゲーム差は「11」に開いています。
いまだ21試合を残しているものの、広島がリーグ制覇に向けて優位であることは間違いありません。
しかし、ファンの脳裏をよぎるのは、CSではないでしょうか。
リーグ優勝を果たすことができても、CS敗退となれば、日本シリーズ出場はかないません。
それどころか、リーグ優勝の喜びもかすんでしまいます。
これまでにも、リーグ優勝しながら、日本シリーズ進出を逃した球団はあったのでしょうか?

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中日、阪神に敗れた巨人。ロッテに屈したソフトバンク



リーグ優勝しながら、日本シリーズ進出を逃したのは、セパ3球団。
セリーグでは、2007年と2014年にリーグ優勝した巨人が、CSで敗退しています。
パリーグでは、2010年にリーグ優勝したソフトバンクがCSで敗れてしまいました。

とくにファンに大きなインパクトを与えたのが、リーグ3位から勝ち上がった2010年のロッテ。
この年のロッテは、2位西武を2勝0敗で退けると、1位のソフトバンクも4勝3敗で制したのです。
ロッテは勢いそのまま、日本シリーズも優勝。
見事に日本一に輝いたのです。

セリーグでもっとも印象的な下克上は、2007年の中日ではないでしょうか。
リーグ2位の中日は、3位阪神を2勝0敗で退け、1位巨人と対戦。
そして巨人を3勝0敗で破ってしまったのです。
この2007年は、優勝チームに与えられる1勝のアドバンテージがありませんでした。
落合博満監督の采配も当たり、日本シリーズも優勝。
53年ぶり2回目の日本一を手にしたのです。

振り返ると、2007年のCS開始以来、リーグ優勝球団が有利であることがわかります。
それでも、勝ち上がった球団の印象が強いためか、「下克上」が続出しているような気がしてしまいます。
ただ、短期決戦であるため、優勝した球団も戦いづらい面はあります。
さらに、優勝チームはリーグ戦終了から間隔があいてしまうのもネックです。
試合勘を取り戻すまでに時間がかかるともいわれています。

2位巨人、3位Denaとはリーグ戦で互角の広島



そして今シーズンの広島は、2位巨人、3位Denaとほぼ互角の対戦成績。
また、優勝チーム(まだ決定ではありませんが)として初めて迎えるCSとなります。
ファイナルステージまでの調整も、手探りの面もあるかもしれません。
ただ、本拠地で戦えること、そして戦力を比較しても、広島が有利であるとはいえるでしょう。
田中、菊池、丸ら広島の1~3番トリオも、巨人、Denaでの活躍が光ります。

残りの巨人、Denaとの対戦で、広島がどれほど相手に嫌な印象を与えられるか。
CSへの戦いは、すでに始まっているのかもしれません。

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大河ドラマ真田丸の楽しみ方71 加藤清正に襲撃された石田三成を救ったのは誰? 

家康襲撃を図った三成が、清正らの襲撃を受ける羽目に



NHK大河ドラマ真田丸第34話は「挙兵」。
第33話「動乱」では、徳川家康襲撃を図った石田三成が、逆に襲撃を受けることに。
三成襲撃を企てたのは、加藤清正、福島正則、細川忠興らの七将でした。
ここで三成は、徳川家康の仲裁を得て、窮地を脱します。
真田丸では、三成を助けるのが主人公真田信繁、信幸兄弟、父の昌幸という筋立て。
しかし、史実の上で三成を救ったのは、真田丸にも登場しない意外な人物でした。

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襲撃された三成を救った?常陸の大名・佐竹義宣



石田三成による家康襲撃計画は、あくまで大河ドラマの上での創作。
しかし、三成襲撃事件は、実際にあった出来事です。
三成襲撃を企てたのは、加藤清正、福島正則、細川忠興らでした。

豊臣秀吉家臣として同じ釜の飯を食べていながら、三成と清正、正則、忠興らは犬猿の仲。
朝鮮出兵で朝鮮奉行を務めた三成に、清正らは不満を抱いていたといわれています。
日本から朝鮮半島への補給はうまくいきませんでした。
さらに、清正らは戦いぶりをめぐって秀吉の叱責を受けることも。
その元凶が、朝鮮奉行・三成だと思い込み、清正らは恨みを持ったといわれています。

そして、秀吉の死後、清正らはついに三成襲撃を決行します。
五大老のひとり、前田利家が世を去り、彼らの重しとなる存在もいなくなってしまいました。
一方、三成の側でも、七将の襲撃計画を事前に察知していました。
三成は伏見城内に逃げ込みます。

この事態を打開できるのは、徳川家康しかいませんでした。
真田丸では、おそらく真田信繁、信幸、昌幸の父子が、三成救出の役回りを担うのでしょう。
しかし、三成救出に大きな役割を果たしたのは、常陸の大名・佐竹義宣だったようです。

佐竹家は早くから豊臣秀吉と好を通じていました。
また、三成の口添えによって、改易を免れたともいわれています。
佐竹義宣は、豊臣家と三成に恩義を感じていたのかもしれません。
一説には、義宣は三成を女輿に乗せて、宇喜多秀家の屋敷に送り届けたともいわれています。

信繁とたかの娘は、佐竹義宣の弟に嫁いでいた



じつは佐竹義宣と主人公・真田信繁には縁もあるのです。
信繁とたか豊臣秀次の娘)の間に生まれた「御田姫」は、義宣の弟・岩城宣隆の妻になっているのです。
御田姫は大坂城の落城前に、母たかと共に、京都に逃れたといわれています。
御田姫は捕らえられて江戸に送られたもの、叔父・真田信幸の嘆願により、江戸城大奥の女中に。
大奥で務めているうちに、佐竹義宣の知るところとなり、弟岩城宣隆の側室となるのです。

のちに御田姫は、岩城宣隆の側室に。
御田姫は領内に父・信繁の菩提を弔うため寺を建立。
さらに弟・幸信を呼び寄せ、岩城家に仕官させてもいます。

真田丸に佐竹義宣や御田姫が登場するのかはわかりません。
それにしても、歴史はときにドラマチックです。

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大河ドラマ真田丸の楽しみ方70 兼続が家康に送った「直江状」本当にあった? 

兼続役・村上新吾さんの朗読でも話題になった「直江状」



NHK大河ドラマ「真田丸」は、関ヶ原の合戦へとストーリーが進んでいきます。
関ヶ原の合戦の引き金となったのが、徳川家康の上杉征伐。
このとき、家康を激怒させたのが、上杉景勝の重臣直江兼続が送ったといわれる「直江状」です。
兼続は挑発的な文面の「直江状」で、徳川家康の上洛要請を拒否したといいます。
ところが、この「直江状」には、偽物説もあるのです。
真田丸の兼続役・村上新吾さんの朗読で話題になった「直江状」。
はたして「直江状」の真偽に疑問符がつく理由は?

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直江状の挑発的な文面に家康は激怒?



直江兼続が徳川家康にしたためたといわれる直江状。
内容は挑発的で、家康を激怒させたといわれています。

上杉家の上洛を迫る家康に、兼続は応じられない理由を書状にしたといいます。
家康が上洛を要請したのは、周辺大名の訴えがあったから。
領国会津に戻った景勝は城を築き、道路も建設し始めていました。
家康は、それを戦の準備ととらえたのです。

直江状は、家康の疑問に対して、ひとつひとつ答えていきます。
申し開きというよりは、揚げ足取りのようなもの。
強大な力を誇る家康に、けんかを売るような文面でした。

兼続の直江状の言葉遣いに、偽物説も根強く



しかし、この直江状には、偽物説も根強くあるのです。
偽物説の根拠のひとつは、その言葉づかい。
上杉家家臣の兼続の書状ながら、大名に向かって同格の言葉が使われている、というのです。
たとえば、文中では「大谷吉継」を、敬称を用いず「大刑部」となっています。

偽物説のもうひとつの根拠は、書状が送られた時期。
家康の使者が出発した日から、わずか3日後に書状を受け取ったことになっているのです。
これは、当時の交通事情では不可能です。

直江状には偽物説もある一方、その存在を肯定する歴史家も。
ただ、後世に加筆修正された可能性は大きいといえそうです。
直江状は原本が存在せず、資料として残っているのは、後世の写本だからです。

直江状の真偽は明らかでないものの、景勝と兼続は、家康の上洛要請に従いませんでした。
結果的に、景勝と兼続は、情勢を見あやまったことになります。
関が原の合戦は、わずか一日で家康が勝利。
上杉家は取り潰しこそ免れたものの、領地を大幅に削られてしまったのです。

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大河ドラマ真田丸の楽しみ方69 関ヶ原の合戦は三成と兼続の共同作戦? 

「義のため立つ」と告げる景勝、兼続の主従



NHK大河ドラマ真田丸は、いよいよ関ヶ原の合戦へとストーリーが進んでいきます。
この関ヶ原の合戦の引き金となるのが、遠藤賢一さん演じる上杉景勝です。
「義のため立つことになった」と家臣直江兼続が石田三成、真田信繁に告げるのです。
これは、天下を狙う徳川家康と戦う決意を示すもの。
三成と兼続は同い年で、仲が良かったというのが定説。
兼続が会津から、三成が関西から家康を挟み撃ちにしようとしたといわれています。
しかし、最近では二人の間に連携はなかったとする指摘も。
はたして三成と兼続の関係は?

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三成と兼続には、家康挟撃の共同作戦はなかった?



上杉景勝は、早くから豊臣秀吉と好を通じていました。
のちに五大老の一人となり、会津移封後は徳川家康をけん制する役割を担います。
ところが、秀吉死後は、家康の独走を止められませんでした。
それだけでなく、景勝が新たな城を築いたことで、家康から咎められます。

景勝が城を築こうとしたのは、居城鶴ヶ城が手狭になりそうだったため。
さらに周辺の大名からも、景勝が道路を造ろうとしていると訴えられます。
家康は景勝に上洛を求めますが、拒否します。
このため、家康は上杉征伐に向かうのです。

真田丸でも、三成に兼続が「義のため立つことになった」と告げる場面がありました。
もともと兼続と三成は懇意であったといわれてきました。
上杉征伐に向かう家康を東西で挟撃しようとしていたといわれています。

ところが最近の研究では、兼続と三成の間に共同作戦はなかったといわれているのです。

関ヶ原の合戦後、本多正信の次男を婿養子に迎えた兼続



兼続と三成は、互いに取次(外交官)として面識があったといわれています。
ただ、二人が関ヶ原の合戦で共同作戦をとっていたことに疑問を投げかける歴史家も。
三成と兼続は、家康を挟み撃ちする形になりました。

しかしながら、兼続が出羽の最上軍と戦っている間に、三成は家康に敗れてしまうのです。
関ヶ原の合戦は、わずか一日で決着が着いてしまいました。
もしも兼続が家康を追撃していたら、結果は違っていたかもしれません。

関ヶ原の合戦後、上杉家は会津120万石から米沢30万石に大幅に領地を減らされます。
そして大坂の陣では、徳川方として奮戦。
さらに兼続は、家康の重臣・本多正信の次男政重を婿養子に迎えるのです。
政重を迎えたのも、徳川家に恭順を示すためだったのでしょう。

政重は、もともと徳川家を出奔していた人物。
関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家の家臣として、徳川方と戦っています。
兼続は政重に娘を嫁がせ、さらに娘の病死後は姪を嫁がせたほど。
ところが、政重は上杉家も出奔してしまいます。
結局、政重は前田家の家老として仕官。
政重は上杉家から家臣を連れていったため、上杉家の口減らしになったといわれています。

「義」を掲げた上杉家も、関ヶ原の合戦後は徳川家に刃向かうことはありませんでした。
兼続も、家名存続のため、必死の取り成しをするしかなかったのです。
三成との友情があったとしても、それは終わったこと。
こうした兼続の現実的な行動も、関ヶ原の共同作戦を疑わせる一因なのかもしれません。

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先人に学ぶお金の知識1 東大教授・本多静六が財産を築いた3つの方法とは? 

長期投資で利益を上げた、幕末生まれの本多静六



アベノミクス相場でぐっと身近になった株取引。
円安が進み、日経平均株価も上昇。
オンライン証券会社の普及で、サラリーマンや主婦でも気軽に株取引ができるようになりました。
しかし、株取引で利益を上げられるのは、ほんの一握り。
昨年のチャイナショック、そして今年の英EU離脱で損失を受けた方も少なくないでしょう。
そんな短期的変化をものともせず、長期投資で大きな利益を上げた投資家が日本にもいたのです。
東大農学部教授を務めた本多静六。
今回は、本多静六が利益を上げ続けることができた三つの方法をご紹介します。

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貧しい生活にも負けず、苦学の末、東大農学部教授に



本多静六が生まれたのは、今から150年前。
ときは幕末。江戸幕府14代将軍・徳川家茂が世を去り、最後の将軍・徳川慶喜が就任した年です。
静六の生家はもともと裕福な農家でした。
しかし、静六が9歳のころ、父が急死。家計は傾いてしまいます。
貧しい暮らしでも静六少年の向学心はやむことがありませんでした。

静六は14歳で上京。書生として勉学を重ねます。
苦学の末、東京山林学校(のちの東京農林学校、東大農学部)に入学します。
その後、ドイツ留学を経て、東京帝大農学部の教授に。
研究に没頭するだけでなく、明治神宮公園など全国各地の公園の設計改良にもあたりました。
そのほか、東京駅丸の内口駅前広場の設計や関東大震災復興計画づくりなど、功績は数え切れません。

そんな静六には、もうひとつの顔がありました。
本業の研究、設計だけでなく、投資でも成果をあげていたのです。

収入を強制的に貯蓄する「本多式4分の1貯金法」



静六の投資法の一つ目は、「本多式4分の1貯金法」という方法でした。
これは大学の給料から、毎月4分の1を貯蓄にまわすというもの。
東大教授といっても、驚くほどの給料ではなかったようです。
それでも、この4分の1貯金法を20代からこつこつ続けた結果、貯蓄はつみあがりました。

これを現代のサラリーマンに当てはめてみましょう。
かりに月給30万円だったとすると、毎月7万5000円を貯金に回すことになります。
ボーナスが60万円で年2回とすると、そのうち貯金に回すのは30万円。
じつに1年間で120万円を貯金できることになります。
22歳から60歳まで会社員生活を送ったとすると、貯金額は4000万円を超えてしまいます。
実際に収入の4分の1を貯金に回すのは難しいかもしれません。
それでも、5分の1、6分の1でもできるところから始める価値はあるのではないでしょうか。

不景気時に株購入。「2割食い」「10割益半分手放し」で利益確保



静六の投資法の二つ目は、長期投資でした。
静六の投資には、3つのルールがありました。
まず一つ目は、「好景気の時は勤倹貯蓄に徹し、不景気の時に積極果敢に投資する」というもの。
静六は好景気のときは、ひたすら倹約。
そして景気が悪いときには、割安となっている株に投資したのです。

二つ目のルールは「2割食い」
これは投資した株が2割以上値上がりすれば、強制的に売るというもの。
株価が伸び始めたからといって、保有し続けているうちに、売り時を逃すこともあります。
欲張って売りのタイミングを逸しないように、このようなルールを課したのでしょう。

三つ目のルールは「10割益半分手放し」
10割益半分手放しとは、株価が2倍になったら、保有株の半分を売って利益確定することをいいます。
こうしておけば、仮に株価が元に戻ったとしても損失を避けることができます。

株取引では、冷静な投資判断ができないことが少なくありません。
幼いころにお金の苦労を味わった静六は、そうした人間心理を熟知していたのかもしれません。






山林投資で買い値の40倍の利益



静六の三つ目の投資法は、山林投資です。
この投資がもっとも痛快かもしれません。
静六は埼玉・秩父の山林3000坪(9900平方メートル)を4円(現在価値で1万5000円)で購入。
当時、秩父周辺には道路も鉄道もなく、山林を運び出す手段がありません。
そのため地主はただ同然で、静六に競うように山林を売ったのです。
こうして静六は2400万坪もの山林を所有するにいたります。

ところが驚いたことに、日露戦争後の好景気で木材価格が高騰。
木材を運び出す交通網が整備され始めました。
こうして静六が立木を売りに出すころには、3000坪あたり280円の値に。
元値の70倍となり、静六の年収は28万円(現在価値で10億円!)にもなったのです。

静六がいち早く山林に投資できたのは、専攻分野の農林の知識があったから。
とはいえ、誰しも専門知識を生かして、利益をあげられるわけではありません。
静六には嗅覚、先を見通す洞察力が備わっていたのでしょう。

そして、幼いころに貧しい暮らしを経験したことも大きかったようです。
静六は著書「私の財産告白」で、「一度は必ず貧乏を体験すべきものである」と記しています。
また「今までの仕来りや習慣にとらわれることなく、一切の見栄をさえなくすれば、四分の一天引生活ぐらいは誰にでもできるのである」とも述べています。

貧しい生活を一刻でも早く抜け出すため、貯蓄、投資に知恵を絞ったようです。
静六が利益を上げることができたのも、幼いころの貧しさが、それだけ強烈だったのでしょう。

静六は、巨万の富をただ自分のために使ったわけではありませんでした。
静六は退官と同時に、財産のほとんどを寄付したのです。
寄付の多くは匿名、もしくは他人名義でした。
静六はこう言っています。
「人並み外れた大財産や名誉は、幸福そのものではない」
お金は自分自身のためでなく、他人のために使ってこそ価値があるということです。

静六の資産形成法だけでなく、その心意気も、現代人は学ぶべきなのではないでしょうか。

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大河ドラマ真田丸の楽しみ方68 高畑裕太降板で真田信政役は誰に? 

薫役で出演の高畑淳子との親子出演も白紙に



NHK大河ドラマ真田丸で、真田信政役に決まっていた高畑裕太さん。
ところが、高畑さんの逮捕によって出演は白紙に。
母の高畑淳子さんは、真田昌幸の妻・役で出演。
期待された親子出演もなくなってしまいました。
史実の上でも、父信幸が長命であったため、藩主として短い在世期間に終わった信政。
その歴史をなぞるような、降板劇となってしまいました。

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真田信幸と稲の間に生まれた信政



高畑裕太さんがキャスティングされていたのは、真田信幸の次男信政。
信政は信幸と稲(小松姫)の間に生まれました。
真田丸では、信幸とこうとの間にも、ほぼ同時期に子供が生まれることに。
この兄弟にあたるのが、長男信吉です。

信吉、信政とも大坂の陣に出陣。
ところが手柄もたてられず、退却したといわれています。

大坂の陣では手柄立てられず。父が長生きだったため藩主在世も2年だけ



江戸幕府が成立すると、信吉は沼田藩主に。
信政が父信幸を藩祖とする松代藩を継ぎます。
ところが、父信幸は93歳で世を去っており、当時としては大変な長生きでした。
そのため、信政もなかなか家督を継ぐことができなかったのです。
信政は藩主となって、わずか2年で世を去ることになります。

真田丸での信政の登場シーンも、おそらく少ないのでしょう。
NHK連続ドラマ「まれ」の出演などによって注目されていた高畑裕太さん。
なぜ、あのような行為に及んだのか、真相は知る由もありません。

一説には、高畑裕太さんは、橋本マナミさんに好意を抱いていたとも。
橋本さんは、真田丸の細川ガラシャ役で出演しています。
番組の企画で、高畑さんの思いを橋本さんに伝えたところ、恋愛対象ではないと否定。
「お母さんしか思い浮かばない」とコメントしたとも。
この失恋が過ちの背景にあったというのですが…。
おそらく、番組向けの発言だったのでしょう。

はたして、高畑さんの降板で、真田信政を誰が演じることになるのか。
ファンとしては気になるところです。

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広島マジック20点灯?赤ヘル復活を支えた4人の同級生選手 

1991年以来、26年ぶりのリーグ優勝に前進



プロ野球セリーグは、広島が巨人に勝てば優勝マジック20が点灯します。
26年ぶりのリーグ優勝が実現するのでしょうか。
広島が最後に優勝したのは1991年のこと。
じつに四半世紀も優勝から遠ざかっているのです。
エース前田健太投手の米移籍で戦力低下が心配された広島。
広島復活の鍵となったのは、同級生選手4人の成長でした。

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広島の一番、二番、三番を打つ田中、菊池、丸の同級生コンビ



広島復活の鍵となったのは、田中広輔、菊地涼介、丸佳浩、野村祐輔の同級生四人。
入団3年目の田中選手は一番ショートに定着。
盗塁はここまでリーグ2位とリードオフマンの働きぶりをみせています。

二番の菊地選手は、華麗なセカンドの守備で、何度もチームを救ってきました。
また今シーズンは打撃も好調で、打率もリーグで上位に位置しています。

三番打者の丸選手は、ここぞという場面でのバッティングが光ります。
センターの守備、走塁でもチームを牽引しているといえるでしょう。

マエケンの穴を埋める野村祐輔の復活



投手陣を支えるのは、ここまで12勝の野村投手。
新人王を獲得した実力がありながら、ここ2年は不振が続いていました。
今季は持ち味の制球力が戻り、大崩れしなくなりました。
先発したほとんどの試合で六回以上を投げています。

広島を支える同級生カルテットも、アマチュア時代は無名の存在でした。
広陵高校時代に、甲子園で準優勝した野村投手は別格ですが。

菊地選手は、岐阜の中京学院大学出身。
中京学院大時代は、プロ注目の吉川選手を擁して大学全国選手権を制したものの、有名選手が集まるわけではありません。
菊地選手もやはり無名の選手。
それでも広島は、菊地選手をドラフト2位で指名。
プロ野球でも一、二を争うセカンドに育て上げました。

田中選手は、東海大相模、東海大で巨人のエース菅野投手と同級生。
しかし、大学卒業後はプロ球団から指名がなく、社会人のJR東日本へ。
ドラフト上位指名ではなかったものの、ショートのレギュラーに定着しました。

丸選手は、高校時代は投手。
ドラフト三位で広島入団後、外野手に転向。
伸び悩んだ時期もありましたが、主力選手になりました。

今季の広島が優勝を狙える位置にあるのも、丸選手らを辛抱づよく使い続けたからでしょう。
結果を求められる巨人や阪神では、こうもいかなかったかもしれません。
選手育成の面では、前監督の野村謙二郎監督の功績といえるのではないでしょうか。

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創業者急死「世界の山ちゃん」、名古屋、東京以外で食べられるのはどこ? 

居酒屋「世界の山ちゃん」創業者・山本重雄さん、59歳で死去



手羽先で知られる居酒屋「世界の山ちゃん」創業者の山本重雄さんが、59歳で亡くなりました。
手羽先といえば、全国展開が相次ぐ名古屋飯の代表格。
名古屋人だけでなく、インターネット上には、その訃報を惜しむ声が次々と寄せられています。
でも、ちょっと待って。
この訃報記事に、敏感に反応した人が、全国にどれくらいいたのでしょうか。
「世界の山ちゃん」グループ店は現在73店舗。
そのほとんどは、創業地である愛知県内に集中しているのです。
いったい、どこにいけば「世界の山ちゃん」の名物・手羽先が食べられるの?

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自衛隊時代に読んだ本がきっかけ。手羽先店を開業



59歳で亡くなった「世界の山ちゃん」創業者、山本重雄さん。
山本さんが、飲食業の道に進んだのは、ある本を読んだのがきっかけでした。
山本さんは高校卒業後、海上自衛隊に入隊。
自衛隊の訓練の合間に、「あなたも一億円貯められる」という本を読んで、焼き鳥屋に興味を持つように。

山本さんは21歳で除隊後、居酒屋チェーンで働き、修行。
そしてついに、名古屋市内に焼き鳥やをオープン。
さらに、カリッと香ばしいあの独特の手羽先を売りにした「世界の山ちゃん」を始めるのです。
軌道に乗り始めると、次々と「世界の山ちゃん」を増やしていきます。
そして2003年には神奈川県川崎市、翌2004年には新宿と、関東地方進出を果たすのです。

店舗の大部分は名古屋、関東。関西、広島、札幌、熊本には数店のみ



山本さんをモデルにしたキャラクターでも知られる「世界の山ちゃん」グループ店は、現在73店舗。
やはり創業地の愛知県内が最多で37店。
ついで東京16店、神奈川3店となっているものの…。
残るは埼玉、札幌、大阪、京都、兵庫、広島、熊本、海外(香港、タイ)に数店が点在するのみ。
山本さんの急逝が驚きをもって受け止められたものの、知らない人のほうが多いのでは?
名古屋人をのぞけば、知る人ぞ知る存在といえるのかもしれません。

名古屋飯と聞いて思い浮かぶのは、手羽先、味噌カツ、味噌煮込みなどでしょうか。
全国展開が相次ぐ名古屋飯がまず目指すのは、関東地方。
日本各地から多くの人が集まってくるため、名古屋飯も受け入れられやすいのでしょうか。
また関東で成功すれば、話題になるため、ほかの地域にも進出しやすいのでしょう。
反対に関西などでは、独特な食文化があるせいか、進出しにくいのかもしれません。

名古屋飯で、異例ともいえるスピードで全国に急展開しているのが喫茶店「コメダ珈琲」。
フランチャイズ展開で、名古屋から676店に急拡大。
東京、大阪はもちろん、札幌でも行列ができるほどなのだとか。
しかし、直営店は11店舗だけ。

名古屋人のイメージするコメダといえば、分煙もされていない、薄暗く、狭く街角の喫茶店。
ところが、全国に急拡大するコメダは、分煙はもちろん、店内も駐車場も広々。
薄暗いイメージはまったくありません。
業態もメニューもオーナーの裁量に任されている部分が大きいそう。
はたして、「世界の山ちゃん」もコメダのように進化を遂げていくのでしょうか?

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大河ドラマ真田丸の楽しみ方67 寧と石田三成、本当に不仲だった? 

時代劇では、不仲のように描かれる寧と三成



NHK大河ドラマ真田丸は、いよいよ天下分け目の関ヶ原の合戦へと、物語が進んでいきます。
ここで見逃せないのが、豊臣秀吉の妻、石田三成の関係。
真田丸をはじめ、多くの時代劇では、この二人を不仲のように描いています。
一方、寧は徳川家康との関係を深めていったとされるのですが…。
はたして寧と三成は本当に不仲だったのでしょうか?

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寧が溺愛した甥小早川秀秋、関ヶ原で徳川方に寝返る



真田丸では、鈴木京香さんが演じる寧。
秀吉亡き後、豊臣政権を背負って立った石田三成とは、関係が上手くいってなかったとされてきました。
一方で、三成と対立する徳川家康とは接近していったとされています。

その根拠とされているのは、甥の小早川秀秋が、関ヶ原の合戦で徳川方に寝返ったこと。
子供がいなかった寧は、兄の子供である小早川秀秋を溺愛していたといわれています。
ただ、秀秋の寝返りに、寧が直接関与したという資料はないそう。
秀秋の寝返りは、家康の調略によるもの。
寝返りをした側が、「北政所(寧)のため」と口実に持ち出したようです。

また、寧と家康が親しかったことを示す資料もないようです。
寧が愛した小早川秀秋は、関ヶ原の合戦から2年後、21歳で急逝。
後継ぎがいなかったため、小早川家は改易されています。
また、兄木下家定の領地を、可愛がっていた甥に継がせようとしたため、お家争いとなり、家康の怒りをかったとも。
寧の一族が優遇されなかったことも、家康との関係を暗示しているのかもしれません。

三成の娘は寧の養女に。不仲ではなかった証拠に?



それでは、寧と三成の関係はどうだったのか。
寧は三成の娘を養女に迎えていました。
このことから、二人の関係は悪くなかったともいわれています。

もちろん、寧が心の底で、三成をどう思っていたのかはわかりません。
ひょっとしたら、夫秀吉が三成を取り立てたのも面白くなかったのかもしれません。
二人の関係がはっきりわからないため、あれこれと創作されてしまうのではないでしょうか。

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大河ドラマ真田丸の楽しみ方66 三成の家康襲撃計画、実際に襲われたのは三成だった 

徳川家康の屋敷に夜討ちをかけようとする三成。周囲に制止されるが…



NHK大河ドラマ真田丸の第33話は「動乱」。
徳川家康の増長に業を煮やした石田三成が、徳川屋敷に夜討ちを計画するストーリー。
ところが、三成の企みは徳川家康の重臣本多正信に露見してしまうのです。
加藤清正、福島正則らの武将も徳川屋敷の警護に詰めかけ、三成は夜討ちをとどまります。
でも、ちょっと待て。
「真田丸」のように、三成は本当に徳川家康を襲撃しようとしたのでしょうか?

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島左近の家康襲撃の提案を許可しなかった三成



真田丸で描かれているように、石田三成が徳川家康を襲撃したという記録は見つかりません。
もっとお、三成の重臣島左近が家康暗殺をすすめていたものの、三成は許可しませんでした。
三成が実際に徳川家康暗殺を図ったのは、関ヶ原の合戦直前になってのこと。
三成は上杉征伐に向かう家康を近江水口城におびき寄せ、討とうとします。
ところが、この計画は家康の知るところとなり、家康が水口に立ち寄ることはありませんでした。

三成が家康襲撃、家康暗殺を図ったのは、秀吉死後の少し先のことだったようです。
ただ、三成と家康の関係が、一触即発の状態だったのは間違いないようです。
しかしながら、実際に襲撃を受けたのは、誰あろう三成自身でした。

加藤清正、福島正則らの襲撃を受けた三成



三成はこの後、加藤清正、福島正則、細川忠興らの襲撃を受けます。
ただ、三成の側でも襲撃計画を事前に察知していたといわれています。
三成は伏見城に逃れて難を避けますが、事件解決には家康の仲裁が必要でした。
こうして三成は、家康によって居城・佐和山に隠居させられてしまうのです。

この三成襲撃の伏線となったのは、朝鮮出兵だったといわれています。
三成は朝鮮奉行として、朝鮮出兵での補給、兵站を取り仕切ります。
ところが、現地で戦っていた加藤清正らには、面白くありません。
三成には朝鮮出兵での戦いぶりを、秀吉に報告する役目もありました。
清正らは奮戦するものの、秀吉の怒りを買うこともありました。
清正は、これを三成の讒言によるものと思っていたのかもしれません。

こうして、清正や正則、三成との関係は修復不可能となります。
家康は、秀吉子飼いの武将たちの対立につけ込みます。
豊臣秀吉亡き後の天下を狙う家康にとっては、対立は好都合だったのです。

そしてついに、加藤清正、福島正則らは、三成襲撃を実行します。
家康は三成襲撃を事前に同意していたともいわれています。
家康は三成襲撃事件後に仲裁に乗り出します。
三成を佐和山に隠居させ、政敵三成を排除することに成功するのです。

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