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「PD-1」発見・本庶教授ノーベル賞なら、オプジーボ・小野薬品の株価上昇? 

がん免疫抑制する「PD-1」発見で、ノーベル章候補に



10月3日から発表が始まる今年のノーベル賞。生理学・医学賞の分野で最有力といわれているのが、本庶佑京都大名誉教授。本庶さんの功績は、「PD-1」と呼ばれる分子の発見。このPD-1は、小野薬品工業のがん免疫治療薬「オプジーボ」の開発につながりました。本庶さんの研究成果「PD-1」は、今後のがん治療と、製薬化した小野薬品工業の株価にどのような影響を与えるのでしょうか。

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小野薬品「オプジーボ」開発につながった「PD-1」



本庶さんの研究成果「PD-1」は、がんの免疫機能を抑制する分子。
わかりやすくいうと、がん細胞は人間が本来持っている免疫機能を攻撃してしまいます。これに作用しているのが「PD-1」。いわば「免疫のブレーキ役」なのです。つまり、この「PD-1」の働きを抑えることができれば、がんの進行を防ぐことができるのです。

この発見を応用したのが、小野薬品工業のオプジーボです。本庶さんは、国内の医薬品メーカーに製品化を打診したものの、前向きな反応を示す企業はなかなか現れませんでした。そこで、米国の企業に打診しようとしたところ、小野薬品工業が手を上げたのです。

結果的に小野薬品工業の判断は正解となりました。2016年度のオプジーボの売上高見込みは1620億円。小野薬品工業の業績向上に大きく貢献したのです。それにつられて小野薬品工業の株価も上昇。今年4月には、5880円の年初来高値を更新したのです。

米臨床実験失敗で、小野薬品株価は一時ストップ安に



ところが、一転して株価が急落したのは9月のことでした。発端は、共同開発相手の米ブリストル・マイヤーズ・スクラブの臨床実験が期待された成果を得られなかったこと。これによって、今度は年初来安値、ストップ安となってしまったのです。

市場の反応は極端な気もしますが、オプジーボには大きな期待の半面、不安があるのも事実。その不安は効果そのものではなく、高額な価格に原因があるようです。試算によると、肺がん治療にオプジーボを使用した場合、年間3500万円もの治療費がかかってしまうそう。個人負担だけではなく、国の医療財政にも大きな負担となってしまいます。国はオプジーボの薬価引き下げと、使用規制に躍起になっているともいわれています。

一時、ストップ安まで落ち込んだ小野薬品工業の株価。もしも本庶さんがノーベル賞を受賞することになれば、小野薬品工業の株価も再び上昇するのでは、という観測も広がっています。

ただ、がん免疫薬の分野で開発が進んでいるのはオプジーボだけではありません。米製薬大手メルクの日本法人MSDは、「キイトルーダ」というがん免疫薬を開発。厚生労働省から製造販売承認を得ました。いわばオプジーボのライバル出現です。このキイトルーダは、オプジーボと同じ効果を持っているそうです。

おそらく小野薬品工業、メルクのほかにも、がん免疫薬の分野に製薬会社が次々と参入してくるのでしょう。ノーベル賞候補、本庶さんの「PD-1」は、現在進行形の研究成果といえそうです。

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大河ドラマ真田丸の楽しみ方87 真田紐は豊臣秀次の娘「たか」から生まれた? 

呂宋から「たか」が持ち帰った紐が、真田紐のヒントに?



10月2日放送のNHK大河ドラマ真田丸第39話「歳月」で、久々の登場となるのが「たか」。
たかは、豊臣秀吉に一族もろとも命を奪われた、関白・豊臣秀次の娘。堺の商人・呂宋助左衛門によって、呂宋に逃れていたものの、九度山の真田信繁のもとを訪れるのです。そして、このたかが、呂宋から持ち帰ったものの中に、呂宋の珍しい紐があったというストーリー
ひょっとして、この紐が…もしや、あの「真田紐」に?
真田紐は通説によると、信繁の妻・竹林院(春)が考案したとされています。そして、九度山で織られた真田紐は、家臣によって全国に行商されたとも。時代小説、時代劇では、真田紐の行商は世をしのぶ姿で、その実は忍びというのが定番となっています。一方で、真田紐が九度山で考案されたという事実はないとする説も。
はたして、真田丸で描かれる真田紐「誕生」の秘話とは?

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豊臣秀吉の処刑逃れ、呂宋に渡った「たか」



真田丸に登場する「たか」は、豊臣秀次の娘・隆清院がモデルとなっています。
たかの父、関白・豊臣秀次は、豊臣秀吉のおい。秀吉に実子がいなかったため、後継者となり、関白に就任します。ところが秀吉に嫡男秀頼が誕生したことにより、しだいに政権での立場を失っていきます。
真田丸に登場する秀次は、追い詰められた末、自害をとげます。秀次の明るい性格と、はかない生涯のギャップに、多くのファンがひきつけられました。

秀次の一族に待っていたのは、秀吉による苛烈な処刑でした。秀次の妻子、重臣の多くの命が奪われたのです。秀吉の処刑は、幼子でも容赦ありませんでした。ただ、そのなかには、秀吉の処刑を逃れた者もいたのです。それが信繁の妻となる隆清院(たか)でした。

真田丸に登場するたかは、秀次の屋敷に隠れていたところを、信繁がに発見されます。たかを不憫に思った信繁は、たかをかくまい、呂宋助左衛門に託すのです。とはいえ、実際に隆清院(たか)が、なぜ助かったのかはわかっていません。

たかはその後、信繁の妻となりますが、その経緯も謎に包まれています。たかの半生は謎に包まれています。たかが呂宋に渡ったというのも、もちろん三谷幸喜さんの創作なのでしょう。

ところが、たかが呂宋に逃れたことが、真田丸では重要な意味を持つようです。たかが呂宋から持ち帰った珍しい紐が、信繁の目に留まる、というストーリーになっているのです。そう、たかの持ち帰った紐こそが「真田紐」の原型となるのではないでしょうか。

真田紐は九度山で考案されたのではなかった?



通説によると、真田紐は九度山での生活を支えるため考案されたということになっています。その原型となったのは、信州上田の紬技術だったといわれています。信繁の妻・竹林院(春)が、上田の紬を参考に、真田紐を考案。家臣に行商させたというのが通説となっているのです。

時代劇では、真田紐の行商は仮の姿で、その実は情報収集をしていた、と描かれています。
真田丸に登場する真田紐は、たか、信繁、春、そして長澤まさみさん演じる、きりのコラボということになるのでしょうか。

もっとも、真田丸が九度山で考案されたという説には否定的な見方もあるようです。
真田紐はもともと九度山の発祥ではなく、チベットが起源で、海を渡って沖縄から日本へ伝わったとする説もあるのです。

また真田紐は、けして九度山発祥ではなかったともいわれています。真田紐は戦国時代に、刀の下げ緒として用いられていた、いわば軍用品。それならば、全国各地で生産されていたはずだ、というのが九度山特産品説を覆す根拠となっています。真田紐が九度山で考案されたというのは、俗説ではないかというのでです。

それでは、なぜ真田紐が九度山発祥とされているのか。
その背景には、真田一族への支持、そして徳川家康への反感があったようです。関が原の合戦に敗れ所領を失った真田信繁が、天下の徳川家康を追い詰めたことに、庶民は喝采したのでしょう。とくに「太閤はん」豊臣秀吉びいきの大坂では、徳川家康への反感が根強かったといわれています。これとは無関係かもしれませんが、大阪の堺市には、家康の墓所があるくらい。家康は大坂の陣で戦死したことになっているのです。

そんな信繁への共感、家康への反感が、真田紐の伝説を作り出したのかもしれません。真田紐の行商が情報収集をしていたとなると、なんだかスリルとロマンを感じてしまいます。

はたして真田丸では、真田紐誕生の経緯がどのように描かれるのか。三谷流の解釈に注目です。

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大河ドラマ真田丸の楽しみ方86 真田信繁を訪れる大坂城の使者はイケメン木村重成? 

豊臣家の浪人募集の使者、九度山の信繁のもとに?



10月2日放送のNHK大河ドラマ真田丸第39話は「歳月」。
主人公・真田信繁のもとに、大坂から謎の人物が訪れるというストーリーとなっています。
前回放送の「昌幸」で、豊臣家恩顧の大名・加藤清正が「ナレ死」。大坂城の豊臣方が、浪人募集を始めたのも、ちょうどそのころだったようです。天下を狙う徳川家と豊臣家は、加藤清正がとりなした会談によって、和解するものと思われました。ところが、清正らが世を去ったことで、豊臣家はさらに孤立。徳川家との対決に向かっていくのです。
九度山の信繁のもとを、大坂城からの死者が訪れたのは、そのころでした。徳川家と戦うため、浪人を募集するためです。
それでは、信繁のもとを訪れる大坂城の使者とは、はたして誰だったのか?

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加藤清正「ナレ死」によって徳川家との対立深める豊臣家



大坂城の豊臣方が、浪人募集を始めたのは1614年ごろだったようです。ちょうど、豊臣家と徳川家の緊張関係は日に日に高まってきていたころでした。

徳川家康は将軍職を嫡男秀忠に譲り、豊臣家には臣下の礼をとるよう要求。当然ながら豊臣家はそれを拒否し、両家の関係はますます険悪となります。追い詰められた豊臣家では、徳川家への反感がしだいに強まっていきます。

豊臣秀吉恩顧の大名である加藤清正の取り成しによって、一度は、豊臣秀頼と徳川家康の会談が実現します。しかしながら、その後の両家の融和は進みませんでした。

そして加藤清正も、前回放送で「ナレ死」してしまいます。
ほぼ同時期に、前田利長、浅野長政ら豊臣家恩顧の大名たちが次々と世を去りました。これによって、豊臣家は頼りになる大名たちを、失うことになりました。そのころの豊臣家の領地は、65万石ほど。その力は、一介の大名に成り下がってしまったのです。

そして「方広寺鐘銘事件」によって、豊臣家と徳川家の対立は決定的となるのです。
方広寺鐘銘事件とは、鐘の銘文にあった「国家安康」という言葉を発端とした事件です。この「国家安康」という言葉は、「家康」の名が二つに裂かれているので不吉だという、いわば徳川家からの言いがかりでした。

豊臣家は家臣の片桐且元を駿府城の家康のもとに派遣しますが、家康は面会すらしません。それとは対照的に茶々の乳母・大蔵卿局は面会を許されたため、且元はしだいに大坂城での信頼を失います。やがて片桐且元は交渉の不調により、大坂城から追放。家康との融和が絶たれた豊臣家は、徳川家との戦に傾いていくのです。

少し説明が長くなりまいましたが、信繁のもとに大坂城から浪人募集の使者が訪れたのも、こうした背景があったのです。

九度山の信繁を訪れるのは豊臣家家臣・木村重成?



さて、それでは信繁のもとを訪れる、豊臣方の使者とは誰だったのでしょうか。
信繁が大坂城に入城するまでの経緯は、はっきりとしません。

「真田丸」では、豊臣家家臣・木村重成が、信繁を大坂城に迎える役割を果たすようです。
木村重成は豊臣秀頼の乳母の子であったといわれています。重成はやがて秀頼の家臣となり、徳川家との開戦を主張するようになります。そして、徳川家との交渉役だった片桐且元を大坂城から追放するのです。

木村重成は、大坂の陣で真田信繁、後藤又兵衛らと奮戦。大坂冬の陣の和睦交渉では、死者も務めています。また、その勇猛果敢な戦いぶりは、徳川家康をも感嘆させたそうです。

真偽のほどはわかりませんが、木村重成は美男で、体格もすぐれていたといわれています。真田丸では、大河ドラマ初出演となる白石隼也さんが、木村重成を演じます。真田信繁を大坂城に迎え入れる役としては、うってつけなのかもしれません。

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部員10人の不来方、高校野球秋季岩手県大会準優勝!来春は初の甲子園? 

岩手県大会準優勝で、甲子園センバツ大会21世紀枠の有力候補に?



部員10人の岩手・不来方高校が、秋季東北地区県大会で準優勝を果たしました。不来方高校野球部は、10月14日から開幕する東北大会への進出を決め、来春の甲子園出場に一歩前進しました。
不来方高校は部員が10人と少ないため、試合形式の練習を十分にできません。その分だけ、打撃練習に集中してきたことが、秋季岩手県大会での準優勝につながったようです。
もちろん、強豪がそろう東北大会で勝ち進むのは簡単ではありません。それでも今春の甲子園に出場した香川・小豆島や、同じく岩手県の釜石のように、不来方高校が21世紀枠の有力校になるかもしれません。

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地区予選から一人で投げぬいた四番、エースの小比類巻主将



部員わずか10人という少人数で、秋季岩手県大会で準優勝を果たした不来方高校野球部。
不来方は岩手県大会の盛岡地区予選初戦で敗れたものの、敗者復活戦で見事復活。県大会を勝ち進みました。岩手県大会の決勝では、強豪の盛岡大附に0-9で敗れましたが、初の秋季県大会準優勝を果たしたのです。

部員10人の不来方の強みは、全員野球です。
練習はもちろん、道具の運搬や片付けなど、すべて全員でしなければなりません。部員10人と少人数であることも幸いして、チームワークにも磨きがかかったのでしょう。

不来方高校野球部は少人数というハンディを、工夫によって強みに変えました。
不来方高校野球部は部員が10人しかいないため、ランナーを置いての打撃、守備練習などはできません。その分だけ、打撃力を強化することに時間を割いたといいます。

その成果が現れたのか、秋季県大会1回戦では、11-0の大勝。準々決勝の盛岡市立戦でも7-1で快勝しているのです。東大進学実績全国一のエリート高、東京・開成高校野球部を取り上げたベストセラー「弱くても勝てます」をほうふつとさせます。

そんな部員10人の不来方高校野球部を引っ張るのが、エースで四番の小比類巻圭汰主将です。
小比類巻主将は、地区予選から7試合連続完投(コールドゲーム含む)。秋季岩手県大会決勝まで、一人で投げ抜いてきました。

小比類巻主将や選手たちを支えているのは、人数は関係ない、という意地なのでしょう。その気持ちが届いたのか、少人数のハンディをものともせず、岩手県大会準優勝という快挙を果たしたのです。

釜石、小豆島のように21世紀枠での甲子園出場も?



秋季岩手県大会の不来方高校準優勝で思い出されるのが、昨年の秋季岩手県大会準優勝の釜石です。

釜石は東北大会初戦で敗れたものの、今春のセンバツ大会に21世紀枠で出場。2011年3月の東日本大震災で大きな被害を受けた地元釜石市に希望を与えました。
その釜石がセンバツ大会初戦で対戦したのが、香川の小豆島。この一戦は、初の21世紀枠対決として話題となりました。

小豆島も部員16人というハンディをものともせず、昨秋の香川県大会で優勝。見事に21世紀枠での甲子園出場を勝ち取りました。

不来方(こずかた)という珍しい校名は、岩手の古い呼び方に由来します。
不来方高校はもともと、全国優勝の実績もあるハンドボール部、全国大会金賞の常連である音楽部が有名。
部員10人と小所帯の野球部は、ハンドボール部や音楽部の陰に隠れる存在だったのでしょうか。

その不来方高校野球部も、昨秋の岩手県大会で準優勝した釜石や、香川県大会優勝の小豆島のように甲子園出場を果たすのでしょうか。10月の東北大会がその試金石となるのでしょうけど、部員10人という少人数のハンディを乗り越えたことで、来春のセンバツ甲子園21世紀枠の有力候補になるかもしれません。

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大河ドラマ真田丸の楽しみ方85 三成に耳打ちされた清正が家康にとった行動は? 

豊臣秀頼と徳川家康の会談実現に尽くした加藤清正



NHK大河ドラマ真田丸の第38話は「昌幸」。成長した豊臣秀吉の嫡男秀頼が登場、徳川家康と会談します。
この会談を取り成したといわれているのが、加藤清正です。
関が原の合戦に勝利した徳川家康は、江戸幕府の将軍に就任。数年後には、嫡男秀忠に将軍職を譲り、権力の継承を着々と進めていきました。それとは対照的に、豊臣家の力は、相対的に失われていきます。家康は秀頼にたいして、臣下の礼をとるよう要求。徳川家と豊臣家の対立は、ますます深まっていきました。
豊臣恩顧の大名である加藤清正は、こうした情勢を危惧。秀頼と家康の会談を取り成しますが、この会談では秀頼の制止を振り切り、家康にある行動を…。
はたしてこの清正の行動は、石田三成からの耳打ちが背景にあったのでしょうか?

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襲撃するほど不仲でも、互いを認め合う清正と三成



豊臣秀吉恩顧の大名でありながら、関が原の合戦では徳川家康に味方した加藤清正。清正が西軍の石田三成に味方しなかったのは、三成との不仲が原因といわれています。もっとも、清正は九州にとどまっていたため、関が原の合戦には参陣していません。

清正と三成は、なぜ不仲になったのでしょうか。
その原因となったのは、朝鮮出兵だといわれています。三成は朝鮮奉行として、兵站や武将の査定などを担当していました。ところが、食糧補給は十分ではなく、前線の武将は不満を募らせます。

また、三成は武将の戦いぶりを厳しく査定したとされ、清正は秀吉から叱責されることも。かといって清正らは、秀吉に不満をぶつけることもできず、三成への怒りを募らせていくことになります。

清正らの不満は、秀吉亡き後に爆発することになります。
重しとなっていた、豊臣秀吉の盟友前田利家も世を去ると、歯止めをかける者がいなくなったのです。
こうして加藤清正は、細川忠興、福島正則らとともに三成襲撃を実行します。もっとも三成は三成で、清正らの動きを事前に察知していました。真田丸には登場しませんが、常陸の大名・佐竹義重も、石田三成の窮地を救ったといわれています。

最終的に三成は家康の仲裁で難を逃れることができたものの、領国である佐和山に蟄居させられるのです。

ところが、話はこれだけで終わりませんでした。
真田丸で描かれる清正と三成は、敵対しながらも認め合うという複雑な関係にあるのです。
清正が三成に「お前と酒が飲みたい」といえば、三成も清正を「お前は城作りがうまい」と評価しています。虎退治などの武勇伝で知られる清正は、たしかに築城の名人でした。熊本地震で大きな被害を受けたものの、清正が築いた熊本城の築城技術は、現代でも高い評価を得ています。

ここで、志半ばで佐和山に蟄居することになった三成は、清正に何事かを耳打ちするのです。
その耳打ちの内容は視聴者に聞き取ることができず、ファンの間で話題となりました。脚本の三谷幸喜さんは、物語の伏線として、この耳打ちを演出したのでしょう。

蟄居させられる三成が清正に耳打ちした内容は?



この耳打ちの内容をめぐっては、ファンの間で「家康を殺せ」「勝つのは私だ」などと憶測が飛び交いました。
清正は、秀頼と家康の会談に、重要な役割を果たしています。そう考えると、三成の耳打ちは「秀頼様を守れ」「家康を止めろ」といった内容だったのかもしれません。清正は自らがセッティングした会談で、家康に何らかの行動を取るようなのですが…。
このときに清正が家康にとった行動こそが、三成が清正に耳打ちしたことだったのではないでしょうか。

というのも、清正は第38話で「ナレ死」してしまい、以降の出番がないためです。そうすると、清正に三成の耳打ちを実行する機会は、もうなくなってしまいます。

秀吉に忠義を尽くした加藤清正。
ただ、清正は秀吉亡き後、一転して家康に接近していきます。たしかに清正は、秀頼と家康の会談実現に尽くします。その一方で、尾張徳川藩の名古屋城普請にも貢献しているのです。真田丸で三成が評価したように、徳川家からもその築城技術は認められていたのでしょう。

清正は豊臣家に恩義を感じながらも、徳川家の大名として生きる覚悟を決めていたのでしょう。
秀頼と家康の会談を取り成したのが、天国の秀吉へのせめてもの奉公だったのではないしょうか。

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大河ドラマ真田丸の楽しみ方84 出浦昌相が再登場!大坂の陣で出番は? 

本多忠勝との死闘に敗れ、生死不明になった出浦昌相



徳川家康暗殺のため、屋敷に忍び込んだものの、本多忠勝との死闘に敗れ生死不明となった出浦昌相
なんとその昌相が、真田丸第37話「信之」に再登場したのです。昌相のその後について気を揉んでいたファンを喜ばせました。たしかに昌相は、史実の上では、関が原の合戦後も長生きしています。
それでも、出浦昌相はこの再登場まで、いったいどこで何をしていたのでしょうか。
また、この後の大坂の陣でも昌相の出番はあるのでしょうか?

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徳川家康暗殺のため屋敷に潜入するも見つかり、本多忠勝と死闘に



真田丸では、俳優の寺島進さんが演じている出浦昌相。
昌相は、真田昌幸に仕えた忍者の棟梁という設定になっています。
その昌相は、主君の昌幸から徳川家康暗殺を命じられます。もっとも昌幸が、家康暗殺計画を練っていたかどうかわかりません。おそらく、脚本家三谷幸喜さんの創作なのでしょう。

昌幸に家康暗殺を依頼した三成も、その計画を実行することになるのは、関が原の合戦の直前のことでした。重臣の島左近から何度も家康暗殺を献策されたものの、実直な三成はなかなか許可しなかったといわれています。

ところが、真田丸で徳川屋敷に潜入した出浦昌相は、藤岡弘、さん演じる本多忠勝に気づかれてしまいます。そして忠勝との死闘の末に敗れた昌相は、瀕死の重傷を負いながらも姿を消してしまったのです。真田丸では、その生死については、はっきり描かれないままでした。ファンの間では、忠勝との死闘で、命を失ったものと思われていたのです。

しかしながら、史実の上では、昌相は関ヶ原の合戦後も存命したことになっています。
昌相は「犬伏の別れ」の後、真田信之に仕えています。出浦家の子孫は、真田松代藩の家老となったといいます。

九度山に送られる昌幸の前に、再登場した出浦昌相



この史実の通りなら、出浦昌相は生きているのでは、とファンの間で噂されてきました。
やはり、出浦昌相は死んでなどいませんでした。関が原の合戦で石田三成に味方した昌幸と信繁の父子は、九度山に送られることになります。再登場した昌相は、九度山に配流となった昌幸に、生きて別れを告げるのです。

本多忠勝との死闘で重傷を負った昌相は、床に伏せたままの状態です。
それでも、主君昌幸に大坂城の堀についてあれこれと助言しています。透破(すっぱ)として、敵情視察や敵陣に乗り込むこともあったという昌相。大坂城について、詳しく調べていてもたしかに不思議はありません。

しかし、昌幸はこの後、九度山で最期を迎えてしまいます。
昌幸の次男・信繁が大坂の陣に出陣することになりますが、この昌相の助言が生かされることになるのでしょうか。もっとも、昌相は信繁ではなく、長男信之に仕えることになります。

一方、昌相の弟子である佐助は、信繁の忍びとして大坂の陣でも活躍するのでしょう。
もっとも、佐助は架空の人物ではあるものの、昌相は信繁とも佐助とも、敵味方に分かれるのです。昌相が大坂の陣に出陣したとしても、複雑な立場になるのでしょう。

はたして、昌相はこの後、復活するのでしょうか。
史実の上では、昌相が世を去るのは大坂の陣のあとのこと。そうすると、真田丸でも、なんらかの出番があるのかもしれません。

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大河ドラマ真田丸の楽しみ方83 真田昌幸、信繁に打倒家康の策授ける? 

老体にこたえた九度山での生活、ついに昌幸にも最期が



NHK大河ドラマ真田丸第38話は「昌幸」。主人公・真田信繁の父、昌幸がついに世を去ります。
「表裏比興の者」と称され、徳川家康からも恐れられたという昌幸。真田丸では、草刈正雄さんが演じ、主人公の信繁をしのぐほどの存在感を示しました。
ところが昌幸は、関が原の合戦で石田三成の西軍について戦ったため、信繁とともに九度山に送られてしまいます。11年の長期間に及んだ九度山での生活は、老いた昌幸を苦しめることになりました。
ついに最期を迎える真田昌幸。最後まで打倒家康の策を練り続けたともいわれています。はたして昌幸が次男信繁に打倒徳川家康の策を授けることはあるのでしょうか。

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長男信之に九度山での生活費を催促していた昌幸



真田昌幸が世を去ったのは、1611年6月。
昌幸は死罪こそまぬかれたものの、関が原の合戦(1600年)から、11年もの間、九度山での生活を強いられることになりました。

九度山は、和歌山県・高野山のふもとの山村。真田昌幸と信繁には庵が与えられましたが、生活は苦しかったようです。また、山村であるため、冬になると寒さもこたえます。
そのような状況でも、昌幸は長男・信之に、生活費支援を何度も催促していたようです。また昌幸は、罪が許される希望を捨てなかったともいわれています。たしかに、加藤清正の食客となった立花宗茂のように、関が原の合戦で改易されたものの、大名に復帰した例もありました。昌幸が大名に復帰する希望を持ち続けていたのも不思議ではありません。

ちなみに、九度山での生活費を補うため、真田紐を考案したといわれるのが信繁の正室・竹林院。真田丸では「春」という役名で、松岡茉優さんが演じています。竹林院は、信州上田の紬技術を応用した真田紐を、家臣たちに行商させたといわれています。とはいえ、真田紐が九度山で考案されたものかどうかは、はっきりしないようです。また、真田丸では、竹林院(春)が考案したという定説とは、違う描き方になっているようです。

九度山での生活は、老いた昌幸の体を蝕みました。さすがの昌幸も晩年を迎えると、病気がちになってしまっただともいわれています。

徳川家と豊臣家との戦いを予見し、信繁に打倒家康の策を授ける?



一方で昌幸は、徳川家康が豊臣家を滅ぼすため、戦を起こすことを見越していたともいわれています。徳川軍に対抗するため、昌幸は信繁に策を授けたといわれていますが、その真偽のほどはわかりません。

ちなみに昌幸が信繁に授けたとされる策は、美濃・大垣から関が原にかけて、徳川軍を迎撃するというものでした。大軍の徳川軍にたいして、寡兵でゲリラ戦を挑むことを想定していたようです。豊臣方はたくみに撤退しながら、最後は琵琶湖にかかる瀬田の唐橋を焼き落とすというもの。そこで一気に徳川軍をたたくというものだったようです。

とはいえ、尾張から美濃にかけて、豊臣方に味方しそうな大名は見当たりません。尾張には天下普請で、名古屋城が築かれようとしていました。昌幸の策は実現性が低いといえるのではないでしょうか。

最後まで宿敵徳川家康を苦しめようとした昌幸も、ついには老いには勝てませんでした。1611年6月、65歳(67歳の説も)で世を去ったのです。

かつてのNHK時代劇「真田太平記」で、丹波哲郎さんが演じた昌幸は、大坂で徳川家康を迎え撃つことを夢見続ましや。忍びを各国に送り込み、情勢把握に余念がありませんでした。そして草刈正雄さんが演じていた次男幸村に、打倒徳川の夢を託したのです。

真田丸では堺雅人さん演じる真田信繁に、昌幸が徳川家康を討つ秘策を授けることはあるのか。大坂城に築かれる「真田丸」が、昌幸の授けた策だったなんてことも…。そう考えるのは、都合がよすぎるでしょうか。

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蓮舫民進党代表「二重国籍で当選無効」は根拠なし? 

台湾籍との二重国籍問題で「当選無効」指摘する声も



民進党代表選に当選した蓮舫参院議員。
ところが、台湾籍にかんする説明が食い違っていたことが判明。火種はくすぶっているようです。
蓮舫議員は、台湾籍を放棄したと説明していたものの、事実ではありませんでした。
釈明と謝罪に追われた蓮舫議員をめぐっては、議論が混乱しているようです。
なかには「蓮舫議員は二重国籍だから当選無効になる」という厳しい意見も。
はたして、蓮舫議員のような二重国籍者は当選無効になるのでしょうか?

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「日本人ではないので国会議員になれない」は間違い



父親が日本人、母親が台湾人という蓮舫議員。
日本の国籍法では、重国籍者は「22歳に達するまでに」どちらかの国籍を選択する必要があります。
蓮舫議員の場合、日本国籍を選択し、台湾籍を放棄したと説明していました。
ところが、実際には台湾籍は残ったまま。二重国籍状態は解消されていなかったことになります。

蓮舫議員の説明の食い違いに対しては、厳しい意見が次々と寄せられました。
その急先鋒は、ブロガーの池田信夫氏。
池田氏は自身のブログで、蓮舫議員は「日本人ではないので国会議員にはなれない」とコメント。
テレビ番組「そこまで言って委員会NP」では、民進党原口一博元総務相も国籍法違反と指摘。

「公選法は重国籍を排除せず」との見解も



しかしながら、二重国籍であるから国会議員選挙に立候補できないわけではなさそうです。
参議院の資料にも「公職選挙法上は重国籍者を排除する規定はなく」と見解が示されています。
たとえば、被選挙権年齢となってからも、二重国籍になるケースもありうるのです。
20歳以降に二重国籍となった場合は、それから2年以内に国籍を選択する必要があります。
つまり、二重国籍でも日本国籍がある以上、立候補は可能となるのでしょう。

たしかに原口元総務相が指摘するように、国籍法に抵触する可能性はあるかもしれません。
しかし、池田氏が指摘するように、二重国籍=日本人ではない、というのはどうか。
法務省のホームページは「日本国籍を失う場合がある」と可能性を指摘するだけです。
これは、国籍離脱が認められないケースがあるためでしょう。
蓮舫議員は日本国籍を失っておらず、二重国籍でも、国政選挙への立候補は認められています。
(もちろん、二重国籍の未解消と、説明の矛盾は問題ですが)
「日本人ではないので国会議員にはなれない」というのは、あたらないのではないでしょうか。

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大河ドラマ真田丸の楽しみ方82 真田信繁が「幸村」と改名!史実は? 

「信繁」の名にこだわった三谷幸喜さんも「幸村」改名を決断?



NHK大河ドラマ「真田丸」で通称ではなく、本名で通してきた真田信繁。その信繁が、真田丸でもついに「幸村」と名乗ることになりそうです。この改名にまつわる経緯は、第40話「幸村」で明かされるのだそう。
真田丸の脚本家・三谷幸喜さんは、一貫して信繁の名にこだわってきました。その背景は、講談ものとして人気になる以前の真田信繁の姿を丹念に描くためでした。
しかしながら、大坂の陣出陣にあわせて、真田丸でも信繁から「幸村」に改名するようです。
時代劇などで親しまれてきた真田幸村の名。はたして歴史上でも、信繁が幸村と改名した事実はあったのでしょうか。

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1672年成立の「難波戦記」に、幸村の名が初めて登場



「真田太平記」などの時代劇、そして時代小説などで、「幸村」として親しまれてきた真田信繁。
その一方で、三谷幸喜さん脚本の「真田丸」は、一貫して「信繁」という本名にこだわってきました。その意図は、信繁の姿を丹念に描くためです。

とはいうものの、NHK側も最後まで「信繁」の名を一貫させるつもりではなかったようです。大坂の陣にあわせて「幸村」と名乗るアイディアを暖めていたのです。

史実上、信繁の兄・信幸が「信之」と改名しています。この改名は第37話「信之」で描かれました。
それでは、弟の信繁も「幸村」と改名した史実はあったのでしょうか。ところが、実際には、信繁が幸村と改名した史実はなかったようです。

「幸村」の名が世間に広まったのは、大坂の陣の後のことだといわれています。大坂の陣での真田軍の戦いぶりは、講談もの(軍記物とも)として人気になりました。関が原の合戦に敗れて、浪人となった真田信繁や後藤又兵衛らが、大軍の徳川家康を苦しめたことが、判官びいきの民衆にうけたのでしょう。

ちなみに「幸村」の名が最初に登場するのは、1672年成立の軍記もの「難波戦記」だといわれています。
「難波戦記」で真田信繁は「幸村」という名前で登場しています。それから、通称である「幸村」が世間に定着した、というのが真相のようです。

いつしか本名の信繁よりも、幸村のほうが有名となり、ついに真田松代藩の系図まで「幸村」の名を採用するまでになったのです。

松代藩の真田家系図までが「幸村」の名を採用するように



しかしながら、あくまで信繁が「幸村」と名乗った事実はなかったようです。書状にも「幸村」という名前が記載されたことは確認されていないといいます。

ただ、幸村の「幸」の字は、父昌幸、兄信幸と同じで、真田家の通り名となっているのです。一方で、「村」の字は妖刀「村正」からとられたともいわれています。ただ、難波戦記の作者が、なにを意図して「幸村」と名づけたのかはよくわかっていません。はたして、真田丸ではどのようないきさつで、信繁が幸村と名乗るようになるのか。名前にまつわるドラマも見所のひとつとなりそうです。

「幸村」として大坂の陣の英雄になった真田信繁。
真田丸の功績は、本名である「信繁」の名を定着させたことなのかもしれません。

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大河ドラマ真田丸の楽しみ方81 真田信幸が「信之」と改名した理由は? 

改名で父昌幸の「幸」の字を捨てた真田信之



NHK大河ドラマ第37話は「信之」。このタイトルが示すように、大泉洋さん演じる真田信幸が「信之」と改名します。
真田信幸は、なぜ「信之」と改名したのでしょうか。
真田信幸が信之に改名したのは関ヶ原の合戦後でした。関ヶ原の合戦で、真田家は父昌幸、弟信繁が石田三成について戦いました。昌幸と信繁は上田城の合戦で、徳川家康の嫡男秀忠を破ったのです。しかしながら、関ヶ原の合戦で石田三成が敗れたため、二人は罪人として九度山に送られるのです。
信幸が改名で父の「幸」の字を捨てたのも、徳川家に歯向かった父昌幸との決別を示す意味があったのです。

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真田信之以外にも、徳川家康や上杉謙信らも改名



真田信幸が「信之」と改名したように、戦国武将の改名はそれほど珍しくありません。
真田丸にも登場する徳川家康も、たびたび改名をしています。家康はもともと元服後、松平元信と名乗りました。この元信の「元」という字は、主君の今川義元から一字をもらったものです。

ところが、松平家が今川家から独立したのを契機に、家康は「元」の字を捨てます。これは松平家が、今川家から独立することを内外にアピールするためだったのでしょう。家康はその後、松平という姓も、徳川にあらためています。清和源氏の一族、新田氏の支流「得川氏」に由来する姓。これは三河守の任官を受ける際に、とられた措置のようです。戦国武将には、政治的に改名、改姓が必要になることがあったのです。

生涯のうち何度も改名したのは、徳川家康だけではありません。
上杉謙信も、幾度も改名しています。元服後に名乗ったのは長尾景虎。その次に長尾政虎。関東管領上杉家の養子となると、上杉輝虎を名乗りました。そして出家後には、謙信と名乗っているのです。

家康や謙信と比べれば、信幸の改名も、驚くことのほどではありませんでした。
しかしながら、父昌幸と弟信繁は、徳川家康の嫡男秀忠を負かしてしまいました。信幸が徳川家の大名として生きていくためには、父と決別したことを世間に表明する必要があったのです。そこで、真田家の通り名である「幸」の字を改め、「信之」と名乗ったのでしょう。

信之に改名後も、父昌幸と弟信繁の九度山での生活費を支援



ただ、信之と改名したからといっても、父昌幸、弟信繁と縁を切ったわけではありません。
信之は徳川家に、昌幸と信繁の助命嘆願をしています。 信之の妻は徳川家重臣・本多忠勝の娘・でした。稲は徳川家康の養女として、真田家に嫁いでいます。信之は、そのつてをたどって、家康に助命嘆願を願い出たのです。

昌幸と信繁が死罪をまぬかれ、九度山に送られた後も、信之は生活費を送っていました。信之と改名したとはいえ、昌幸、信繁と決別したわけではなかったようです。改名は、あくまで表向きにすぎませんでした。

改名した信之は、真田家存続のため、徳川家から課される公役も進んで引き受けました。
一方で、信之は徳川家への反骨心を内に秘めていたのかもしれません。信之の遺品からは、石田三成から送られた書状が見つかっているのです。

関が原の合戦で徳川家と戦った三成の書状が見つかっては、真田家も徳川家からにらまれるかもしれません。それにもかかわらず信之が三成からの書状を残しておいたのも、内に秘めた思いがあったのでしょうか。

真田丸では実直なキャラとして描かれている真田信幸。大泉洋さんも、コミカルに演じているものの、けしてお人よしであったのではありません。「信之」と改名したのも、そのしたたかさと豪胆さのあわられだったのかもしれません。

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